大阪高等裁判所 昭和35年(う)779号 判決 1965年6月07日
被告人 長久保与三郎
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役二年に処する。
本裁判確定の日より四年間右刑の執行を猶予する。
原審及び当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
本件控訴の趣意及びそれに対する答弁は、検察官石原鼎名義の控訴趣意書及び弁護人亀井譲太郎、同樺島益生、同村本一男作成の各答弁書記載のとおりであるから、これを引用する。
論旨は、本件公訴事実は「被告人は、兵庫相互銀行今里支店に勤務する傍ら、融資の斡旋をしていたが、八十万円の負債と三百数十万円の資金回収不能に陥り、これが整理に苦慮した結果、妻奈良子(当時二十九年)を殺害してその保険金を取得しようと決意し、昭和三一年八月二〇日午前六時頃大阪府茨木市中穂積三五五番地の自宅奥四畳半の間で妻奈良子と同衾中、自己の寝衣の紐を同女の首に巻きつけた上、その両端を両手で強く引き締めて絞殺したものである」との殺人の事実であるが、原審裁判長の勧告により予備的訴因として重過失致死の事実を追加したところ、原裁判所は前記殺人の本訴因を排斥し、重過失致死の予備的訴因を採用し、原判決のとおり認定したが、右認定は誤認である。これは被告人の公判廷における合理性に乏しい弁解を過信し重要な証拠を看過した結果によるものである。本件における被告人の殺意は以下の事由により十分認められる。外形的事実である絞痕の状況、被告人の犯行後の行動すなわち何等救助行為をせず、むしろ事故死を偽装している点、のみならず殺害の動機と考えられる借金、自己の周旋にかかる融資の回収不能金の存在と被害者妻に生命保険がかかつている点、加えるに被告人の自白調書もあつて、しかも、これが客観的事実に符合しており、却て被告人の公判廷における殺意否認の供述は、被害者の創傷の状況と符合せず且つ不自然な個所が多く到底措信できないというのである。
よつて案ずるに、前記本件公訴事実の本訴因と原審認定の事実である「被告人は……妻奈良子は、いわゆるエロ雑誌等で知つたものか、首を絞めて性交すれば性感覚を増進しまた姙娠もするかも知れないといつて時々被告人に性交時自分の首を絞めてくれるように求めたが、被告人は躊躇していた。昭和三一年八月二〇日午前六時頃前記自宅奥四畳半の間において同衾性交に際し、被告人はついに奈良子の求めに応じ、同女の首を自己の寝間着の紐で一回まわして交叉し両手で紐の両端を引つぱつて同女の首を締めながら性交に及んだ。このような場合には性交時の興奮のあまりややもすれば首を締め過ぎて窒息死にいたらしめる危険を非常に伴うのでその危険を避けるため絶えず相手の様子を窺い手許の力を加減する等きわめて細心の注意をしなければならないのに、被告人はこれを怠り、同女の首を緊縛しつづけていく中同女が身体的けいれんを起したのをかえつて性感の極致に達したものと軽信し、なお右紐を強く引き締めたため間もなく同女が鼻血を出し仮死状態に陥つたのであるが、約三〇米の近隣に済生会病院茨木診療所がありすぐに医師の手当を受ければ蘇生しえたにかかわらず、被告人は外聞をはばかり、直ちに医師の手当を求める等の適当な措置をとらず、かえつて、同女が台所で自ら椅子より転落した過失によるもののように偽装しようと考え、炊事場にあつた手斧で同女の右側頭部を殴打し該部に骨膜に達する割創を与え、同女を普段着に着せ替え、さらに台所の椅子を倒す等の偽装工作をして時間を空費し、同女に対する適切な応急措置をとらなかつた重大な過失により、同女をしてその間に右自宅において右絞首の結果窒息死するにいたらしめた」との間の共通の「被告人が原判示日時、場所において被告人の妻奈良子と同衾中、同女の首を自己の寝間着の紐で締め、その結果同女が窒息死に致つたことは原判決挙示証拠により明らかである。そこで、その首を締めた理由が、本訴因のように殺意に基くものか、原審認定のように殺意はなく性交時の快感等を得るための被告人の妻の要求に基くものであるかを検討するのに、先ず被告人の本件についての供述状況を見ると、原判決が「自白調書について」と掲示しその項で詳細説示しているとおり、被告人は犯行直後逮捕され、その日の司法巡査篠塚光得、巡査部長板谷多一の取調べに際しては原審認定の如き供述があり、又同月二二日の勾留前の検察官の弁解録取、裁判官の勾留尋問の際にも同様の主張をしていたところ、その勾留後に巡査部長萩原勇に対し、本訴因のとおり自供し、翌日その旨の供述調書が作成せられ、又同日付で「妻を殺した動機について」「業者に資金を斡旋したる件」と各題する上申書を提示し、同日以降の警察官の取調べ及び八月三一日、九月七日の二回の検察官斎藤周逸の取調べに対しても同様の自供をしている。ところが、原審公判廷においては最初の逮捕直後の供述のように、原審認定のような供述となつていることは、本件で取調べられた被告人の司法警察員、検察官に対する各供述調書、被告人作成の上申書、被告人の原審公判廷における供述、原審証人板谷多一、同萩原勇、同斎藤周逸の各証言により明らかである。この供述の変遷の経緯に徴すると、一概にいずれの側の供述が措信でき、他は措信できないともいえない。そこで殺意に基くと自供する、その犯行の動機すなわち、自己の負債及び融資斡旋のこげつきを整理するために妻の保険金を取得しようとしたこと並びに自己の年来の学問の研究の完成を期するためとの事由を検討するのに、原判決が「二、犯行の動機とされているものについて(イ)負債、斡旋融資のこげつき、(ロ)保険」の各項において説示するとおり、被告人には本件犯行当時被告人の負債八〇万円、斡旋融資回収不能分約二一〇万円があり、被告人の妻奈良子すなわち本件被害者を被保険者とし被告人が受取人となつている生命保険は日本生命に昭和二六年一月に五〇万円、三一年二月に一〇〇万円(この分は次の住友の分と同じく災害付契約で災害死の際は倍額給付となる)住友生命に三〇年九月に五〇万円計二〇〇万円が存在したことは本件証拠により認められるが、原判決がその挙示証拠に基き説示しているとおり斡旋融資焦付に出資者から又自己の債務につき債権者から特に督促があつたとは窺えないので、右整理を理由に妻を殺害してまで保険金を取得しようとしたとの動機は必ずしも肯認できない。殊に原判決が「夫婦関係」と掲示しその項で、その挙示証拠に基き説示するとおり被告人と妻との関係は極めて円満であつたのである。いわんや、もう一つの学問の研究の完成を期するとの動機は、その検察官に対する第二回供述調書にある「損害をかけた出資者を助ける道は妻の保険金をあてる以外に道なく、また現在の世界状勢から見ると共産主義国家群と自由主義国家或いは第三、第四の国家群に分れ互いに争うため人類がどれほど不幸に陥つているか分らない。これを救うことが人間の最高の道であり、これには現在のような不完全な経済理論でなく万人に妥当し時空を超越する絶対的な経済理論を確立する必要があり……このために一生を捧げるべきであると信じていたが、このまま、のたれ死ぬよりは妻に犠牲になつてもらつて債務を整理し、自分の長年の研究を継続し他日の学問の研究の完成を期することは生きた妻にいつても分つてもらえないだろうが死んで魂となればこの考えに共鳴して喜んでくれるという考えをもつようになつた。これは本年七月頃から頭に浮んだ考えで、この考え方はこの後も常に私の精神をとらえて潜在的にはいつもこの考えが消えていなかつた」との供述の唐突性、不可解性に徴すると、仮令鑑定人黒丸正四郎の鑑定書により認められるとおりの被告人は自己顕揚慾性精神病質者であると言つても到底採用し難い。そこで検察官所論も強調するように、本件についての犯行の前後に顕われている外形的事実から殺意の有無を検討することにする。前叙のとおり本件の死因は絞首による窒息死であることは鑑定人大村得三の昭和三一年一〇月五日付鑑定の「長久保奈良子の死体に存在する損傷は右側頭部、頭皮下に達する打撲創、外表上所見を欠くが左側頭部、右前額部の打撲傷及び左前胸上部の皮内出血、頸部皮下筋肉内に出血を伴う頸部絞痕である。本件死因は頸部絞搾による窒息の結果でその死は絞死であると認められる。頭部打撲創、打撲傷等は直接死因に影響を及ぼす程度でない」との記載によつても明らかで、又この首を締めるに至つた経緯は被告人の警察、検察庁、原審公判廷の供述によると、その首をしめている途中に殺意が生じたかどうかの相違は別として終始、自己の寝間着の紐で妻がその性感を得るための要求に基くものと供述しており、その供述は前記大村得三の鑑定書及び原審証人河合文男の証言、同人の司法巡査に対する供述調書、倉内智栄子の司法巡査及び検察官に対する各供述調書と照合しても抵抗の形跡がないなどからして肯定できるところである。ところで右鑑定書及び証人河合文男の証言を総合すると、絞首は表皮剥脱を伴うような相当強く且つ急激なものであることが窺え、しかも被告人が射精した形跡が認められない。しかし、さればといつてこれからだけで被告人が首を締めている途中殺意を生じ急激にしめたものか、原判決が認定するように首を緊縛しつづけていく中同女が身体的けいれんを起したのをかえつて性感の極致に達したものと軽信し、なお紐を強く引き締めたものか、いずれとも断定し難い。又前記大村得三の鑑定書、証人河合文男の証言、同人の司法巡査に対する供述調書及び倉内智栄子の司法巡査及び検察官に対する各供述調書並びに司法警察員萩原勇作成の昭和三一年八月二〇日付の検証調書及び被告人の司法警察職員、検察官に対する各供述調書、被告人の原審公判廷の供述によると、被告人は妻を絞首し、窒息せしめた後にこれを知り乍ら直ちに医師の手当を求める等の適当な措置をとらず、かえつて原判決認定のとおりの偽装工作をし、隣人倉内智栄子が物音にかけつけ、近隣の済生会病院茨木診療所の医師を呼ぼうとすれば「うちは河合先生だから」と言つて止め、わざわざ遠方から河合医師を呼ぼうとし、倉内の呼んでくれた自動車に妻を乗せず、自分独り自動車に乗つて河合医師の許へ行つており、二度目に妻を連れて行つた際も医師に真実を告げず、妻が高い所から落ちて気絶したと主張し、過失によつて死亡した旨の診断書を書くように要求し、医師から性交中の過失でないかと尋ねられて始めてこれを認めていることが認められる。これらの行動は明らかに異様なものであるが、さればと言つてこの偽装工作が、予ねての計画を思い起した上での殺人の偽装工作と言えるか、被告人の原審公判廷における供述のような妻の窒息に周章狼狽し、外聞をはばかつての偽装工作と言えるか、これもこの事実だけからは断定し難い。殊にこの偽装工作は余りにも幼稚とも考えられ、計画的な殺意に基くものとは首肯し難いところである。以上彼此勘案すると、被告人の所為は殺意に基くものではないかの疑いは濃厚ではあるが、そうかと言つて原判決の詳細な説示を斥け本件公訴事実の本訴因は十分認めるに足るものとは断定し難いのである。もつとも、原判決が認定するように「被告人は……なお右紐を強く引き締めたため間もなく同女が鼻血を出し仮死状態に陥つたのであるが、約三〇米の近隣に済生会病院茨木診療所があり、すぐに医師の手当を受ければ蘇生しえたにかかわらず、外聞をはばかり直ちに医師の手当を求める等の適当な措置をとらず、かえつて……手斧で同女の右側頭部を殴打し割創を与え……偽装工作をして時間を空費し……窒息死に致らしめた」ということであれば、被告人は仮令被害者の要求によるものとはいえ、自己の所為に基き仮死状態に陥らしめたのであるから、当然妻の蘇生をはかるため適切な処置をとるべき義務があるもので、これをせずかえつて死を認容して前記の如き偽装行為をなし、遂に死亡するに致らしめたことになるので、これはこの段階において不作為による殺人罪を構成するとも考えられるのである。そこで記録及び証拠を検討するのに、前記鑑定人大村得三の鑑定書、証人河合文男の証言及び同人の司法巡査に対する供述調書によつても、原判決が認定するように被告人が妻の異状に気づいたときに直ぐ近隣の医師の手当を受ければ蘇生し得たとまでは認め難く、むしろ既に偽装工作前には窒息死に瀕しており被告人の応急措置では最早や蘇生し得なかつたものと認められるので不作為による殺人罪とまでは認め難い。しかし、それはともかくとして原判決が認定するように首を寝間着の紐で一回まわして交叉し両手で紐の両端を引つぱつて締める行為でも、性交に際しての被絞首者の要求に応じたものであれば違法性を阻却し、暴行の故意犯が成立しないものであろうか。そもそも被害者の嘱託ないし承諾が行為の違法性を阻却するのは、被害者による法益の抛棄があつて、しかもそれが社会通念上一般に許されるからであると解する。従つて法益の公益的なもの或いは被害者の処分し得ない法益は行為の相手方たる個人の嘱託ないし承諾があつても違法性を阻却しない。又仮令個人の法益であつても行為の態様が善良の風俗に反するとか、社会通念上相当とする方法、手段、法益侵害の限度を越えた場合も亦被害者の嘱託ないし承諾は行為の違法性を阻却しないものと解する。殺人罪における刑法第二〇二条の嘱託ないし承諾殺の規定は以上の考えの現われと解する。そこで本件に関連する暴行罪について相手方の嘱託ないし承諾があつた場合は如何であろうか。暴行罪においては相手方の嘱託ないし承諾は通常、行為を違法ならしめないであろう。嘱託ないし承諾の下になされた行為はそもそも「暴行」という概念にあたらないとさえ解せられるのである。しかし暴行罪においても、矢張り、その態様如何によつては前記のとおり被害者の嘱託ないし承諾は違法性を阻却しない場合があるものと解する。そこで本件についてみるのに、原判決認定のとおり、被告人は性交に際し相手方である妻の求めに応じ、同女の首を自己の寝間着の紐で一回まわして交叉し両手で紐の両端を引つぱつて同女の首をしめながら性交に及び、しかも前叙したとおり相当強く激しく締めている。そして遂に窒息死に致らしめているのである。この絞首が暴行であることはいうまでもなく、且つかかる方法による暴行は仮令相手方の嘱託ないし承諾に基くものといつても社会通念上許される限度を越えたものと言うべく、従つて違法性を阻却するものとは解せられない。おもうに、寝間着の紐で絞めるとなると単に手で絞める場合に比すると一段とその調節は困難であり、相手方の首に対する力の入り具合を知り難いものである。かつ、被害者が真に苦しくなつた時、被告人に対し、その意思(ゆるめてくれという)を表示伝達する方法、手段が準備されておらず、かつ被告人側から見れば性交の激情の亢じた時紐に対する力を制禦する方法、手段が準備されていない。これは窒息死という生命に対する危険性を強度に含んでいるのである。してみると、被告人の本件絞首は違法性を阻却しない暴行というべく、それによつて窒息死に致らしめたもので、被告人の所為は傷害致死罪に該るものと解する。この際被告人が妻の求めもあることで本件の如き行為は法律上も許された行為と考えていたとしても、そのように考えることに既に過失があることであつて、このことによつても違法性を阻却するものではない。かく考えてくると、本件を単に重過失致死罪とする原判決はこの意味において、法律の解釈を誤り、事実の認定、法令の適用を誤つているものといわざるを得ない。しかしてこの誤りは原判決に影響を及ぼすことが明らかである。従つて原判決は破棄を免れない。
よつて刑事訴訟法第三九七条第一項、第三八二条に従い、原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書に従い直ちに次のとおり自判する。
(罪となるべき事実)
被告人は昭和二三年九月妻奈良子と結婚し、大阪府茨木市中穂積三五五番地に居住していたが、結婚後四年頃から妻奈良子は十二指腸虫、胃下垂等の原因で全身衰弱し、そのため性感覚が減退し、その上奈良子の切望していた姙娠の希望もうすれたので、いろいろ医師の手当を受け、病気の方はやや回復したが性感の方はあまり効果がなかつたので鈍つた奈良子の性感を増進するため被告人らは性交に際し種々の方法を用いていたところ、昭和三一年春頃より奈良子は、いわゆるエロ雑誌等で知つたものか、首を絞めて性交すれば性感覚を増進しまた姙娠するかも知れないといつて時々被告人に性交時自分の首を締めてくれるように求めたが被告人は躊躇していたところ、昭和三一年八月二〇日午前六時頃前記自宅奥四畳半の間において同衾性交に際し、被告人はついに奈良子の求めに応じ、社会通念上許されない方法であるのに拘らず同女の首を自己の寝間着の紐で一回まわして交叉し両手で紐の両端を引つぱつて同女の首を締めながら性交し、且つ同女の首を緊縛しつづけて遂に同女を窒息死に致らしめたものである。
(証拠の標目)
原判決が摘示の証拠のとおりであるからこれを引用する。
なお弁護人は被告人の犯行当時の精神状態は心神喪失少くとも心神耗弱であつたと主張するが、原判決説示のとおり黒丸正四郎、長山泰政両鑑定人の鑑定の結果に徴し、右主張は採用できない。
(法令の適用)
被告人の所為は刑法第二〇五条第一項に該当するので、その所定刑期範囲内で被告人を懲役二年に処し、情状に徴し刑法第二五条第一項により本裁判確定の日より四年間右刑の執行を猶予し、原審及び当審の訴訟費用は刑事訴訟法第一八一条第一項本文により全部被告人の負担とする。
(裁判官 石合茂四郎 三木良雄 木本繁)